街の紹介

日野薬品工業の歴史

人々に喜ばれた伝統薬「萬病感應丸」からのはじまり

日野町は、滋賀県の南東部鈴鹿山系の西麓に位置し近江商人の発祥の地の一つとして、また甲賀地方と並ぶ近江売薬の発祥地の一つとして知られています。
1714年(正徳4年)から初代正野玄三が創製した「神農感應丸」を日野から行商に出る近江商人が全国に販売したことから始まったとされています。これを機に、日野では製薬を業とするものが増加し、昭和18年4月、企業整備令により同業30数業者が合体し、当社が設立されました。
昭和31年には、「近江日野製薬株式会社」を「日野薬品工業株式会社」へ社名を改称し新たなスタートをきりました。
以後時代のニーズに応じた製品群の拡張にともない、工場設備の増改築や設備機器等の充実に努め今日まで順調な業績の伸張を図ってまいりました。これからも伝統薬の精神を忘れず、新しい発想と創造力で信頼のある製品をつくり、人々の保健に貢献し続けます。

薬の歴史 「正野萬病感應丸」

親孝行がきっかけに

「正野萬病感應丸」は、約290年の昔、初代正野玄三(1659~1733年)によって創製され、現在に至るまで受継がれている伝統薬です。初代玄三(幼名を萬四郎という)は若年の頃、当時の日野名産であった漆器や茶を東北地方等に行商しておりました。ある日、旅先で母の病を知り、急ぎ帰宅して看病に努めましたが、いっこうに良くならない為、母を背に京に上り、当時の名医名護屋丹水の治療を受けたところ、まもなく全快しました。これに感激した萬四郎は、すでに35才に達していましたが、意を決して丹水に入門し、日夜努力して数年後には師の医学を学びとり、名を玄三と改めて開業、丹水の没後は禁裏(宮中)出入りの医師となり、宝永2年に法橋に任せられ、次いで法眼に昇進し、大いに名声も上がりました。
老齢となってその職を辞し、郷里の日野に帰って医業のかたわら、日野商人に請われて道中の携帯薬として「五色袖珍方(ごしきしゅうちんほう)」という薬を与えました。それは五色の紙に、それぞれ粉薬を包んだものであったので、途中で破れる等不便でした。そこで携帯に便利で、しかも壊れないように扁平で半月形の丸薬としたところ、壊れにくく、しかもその効能が優れていることから、人々に大変喜ばれました。
そこで、正徳4年(1714年)に「神農感應丸」と称して本格的に発売するようになりました。この薬は諸病に特効があった為、世間では「萬病感應丸」と呼んで珍重されるようになりました。そこで明治10年の売薬規則の発布に際して、世間の耳になじんだこの俗称を薬名とし、今日に至るまで昔のままの形で製造、発売しています。

■こんな方にお勧め!!
血虚や気虚からくる症状の改善
(普段から顔色が悪く、血の気の少ない人、疳の強い人、動悸・めまいを訴える人)
気付け薬として
何となく体の疲れがとれない人、何を飲んでも体がシャンとしない人
自分の体にとって良くないものを食べた時の毒消し、下痢止めとして
病中病後の補助薬として